【熊野通信】その弐拾四 《自らを離れる》
 前回は「あなたの人生は、良きにせよ悪しきにせよ、あなた自身が選んだ人生の道なのだ・・」と言うお話しをしました。しかしながら実際に人生を歩んでみると、その様に自覚・納得できないような出来事が、自分の外側から次から次へと身の回りに起こって来ていませんか?
●自分って一体、誰なんだろう?
 自分という字は、「自らを分ける」と書きます。「自」は独自の自で、一人一人が固有の個性を持ってこの世に生まれ生きていく時の、主観的な「私」を表しています。
 また、「分」は部分の分で、社会や地域や地球の一員としての、客観的な「私」を示しているのです。この「自・分」をしっかり位置づけて見つめて行けば、自らが選んだ人生の道のシナリオの輪郭がハッキリと見えてくるのです。
 ところが、あまりにも超スピードな社会のせわしなさに振り回されて、物事の効率や結果ばかりに日々目が奪われていないでしょうか?また自分の周りの人との価値観のズレに悩んでいないでしょうか?自らを分けて問い直していきましょう。
●答えは「自・分」の中にあるのです!
 以前にもご紹介しましたが、粘菌研究で有名な熊野の世界的な博物学者・南方熊楠は、国際的な自然保護組織(ナショナルトラスト)からの要請に対して、自分は熊野と言う固有の場所に立って「独自」にエコロジーを研究活動しているから、わざわざ国際的な名誉や地位を得るために海外の晴れの舞台まで行かなくても、自らの考えや自らが立っている足元の土は、地球として世界のエコロジーの「部分」であり、すべてはグローバルにつながっていると、要請を断ってしまった逸話があります。つまり、自らの内を見つめ「自・分」を確立すれば、自らが一体何をすれば良いか?が、自ずと見えてくるのです。
●自らを見つめて流されない生き方を!
 自分を見つめると言っても、目の前にやらねばならない事が山積みで、なかなかそのような時間も取れず、日常の騒がしさの中では、難しいとお考えではないでしょうか?そしてまた見つめようとしても、一番わかりにくいのも自分自身なのです。そうしている内に、本来自らが決めた人生プログラムが、何もしない空虚な時間と共に、どんどん変質化していき「こんなはずじゃあーなかった人生」に、流されることになりかねません。さあ「流されない生き方」を目指しましょう。
NPO法人 熊野生流倶楽部 代表 満仲雄二
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