【熊野通信】その拾六 《内なる光を探す旅》
 熊野では、節分が過ぎて新宮・神倉神社の御燈祭りが終わると、生命が咲きわう春がやって来ると言われています。季節も良くなり、皆さんも旅行で世界文化遺産熊野を訪れる機会もあろうかと思いますが、今回は古来から多くの人々が目指した熊野詣での観光の本来の意味をお伝えしたいと思います。
●「見る旅」と「観る旅」の違い・・・!
 最近の「観光」と言う言葉には、何か安っぽいイメージがつきもので、美味しいモノを食べて名所旧跡を見る・・・ただそれだけの一過性の感があります。もともと観光の語源は、中国の古典「易経」にあり「国の光を観る」と言う深い意味があります。古代の王は、自然の風が地上を周行しその恵みが万物に及ぶように、あまねく国の四方を巡行して民の生活を観察し、善い国政を行ったそうです。そして、その場所を訪ねる者が、その王の徳に親しく接するだけでなくその国の光を観て、国の輝かしい姿をさらに一緒に盛り上げようと言う想いを持ったモノなのでした。その「観る」は、心の奥深いところで何かを感じ、自らもその影響を受けて気持ちも変わる内的な面を含み、単に目の前にあるものを「見る」だけの表面的な旅ではないのです。
●内なる「光」に目覚める熊野詣で・・・!
 今近代文明が高度化しつつある私達の日本は、国民の80%近くが都市に居住し、多くの人々があふれるモノや情報に踊らされ、自らの人生における大切なものを見失いがちです。そんな時、都市よりもはるかに脈々と、古代からつらなる自然にあふれる熊野の地で、非日常の時空間を旅して未知の土地の持つ「光」に接してみては如何でしょう。そのことにより自らの内なる「光」にめざめ、自分の人生を見つめ直し再考することで、人間再生が可能となるのです。ある意味これは「転地療法」のひとつだと考えられ、今から千年ほど前に流行った「蟻の熊野詣で」は、このことを体感する旅システムだったと思われます。世界文化遺産に登録された熊野古道は祈りの道でもあり、旅で触れ合うスケール感も「目が行き渡る」「手が行き届く」「こころ通わせる」ための程良い大きさを持っています。
●生命を実感する熊野へ・・・!
 最近人々の関心は、都市化が進む中で世界的に地球・自然生態系に、研究や興味が集まっています。これは人間の脳が、本来のやすらぎを感じるために、動物や植物・鉱物等の自然環境から発せられる100キロヘルツにも及ぶ高周波をもった環境音(1/f 雑音)が不可欠であると言われているからなのです。そのような自然の生態系の中に身を置いて、循環する生命の精妙で濃密なネットワークを感じる事が、自分たちを見直すきっかけになると思います。さあ春になれば、一度「癒しの郷・熊野」へ光を求めて出かけてみましょう! 
NPO法人 熊野生流倶楽部 代表 満仲雄二
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