【熊野通信】その拾壱
 前回は「仁のこころ」を持った天皇・仁徳さんのお話をしましたが、今回もやはり仁のこころで「医は仁術」を実践し、20年近くかかり麻酔薬を独自に開発、世界で初めて全身麻酔に成功した、和歌山が生んだ医学界のパイオニア・華岡青洲(はなおかせいしゅう)のお話しをお伝えします。
●痛みを取りたい一心で修行を貫く・・!
 華岡青洲は1760年に、和歌山県紀ノ川沿いの那賀町に生れて、76才(江戸後期)で亡くなるまで、その偉業は痛みを取ることに命を懸けた希有なお医者さんなのです。青洲の父も南蛮流外科を学んだ医師で、元々先祖も農業をしながら薬草を採り、医学・薬学を研究して村の人々を治していたそうです。皆さんもご存じの身体の事を詳しく記した、解体新書が世に出た8年後、22才の青洲は京都に古医方やオランダ流外科など、寝食を忘れて医術の修行に没頭したのです。そして帰郷し医療に携わるかたわら、当時他の医者に治療のできない不治の病・乳ガンを治す事を目標に、手術の痛みを取りたいと「麻酔薬」の研究に没頭しました。
●母と妻の献身的な心に支えられた麻酔薬!
 その青洲の胸中を察した母・於継(おつぎ)が「老い先短い命ゆえ、万が一薬が効きすぎてもお前の研究のためには、惜しい命とも思わぬ」と、何と実験台になる事を言うと妻の加恵も黙っては見ておらず、二人の献身的な申し出に青洲も戸惑いますが、ついに決心し母と妻による臨床実験を数回行ったのです。そして麻酔薬の研究を始めてから19年後の1804年、近くの山や野辺で採集した曼陀羅華(まんだらげ)の薬草から、麻酔薬「通仙散」を創り、世界で初めての全身麻酔による乳房手術を成功させました。それは米国人のモルトン医師のエーテル痲酔に先立つこと40年の快挙で、瞬く間に日本全国に知れ渡り紀州の片田舎が一躍医学のメッカになったのです。
●昔から医は算術?仁術?が問われていた!
 当時幕末の世相は「天保世直口説」と言う風刺本によると「医者は隣村へ往診するのも、馬だ駕籠(かご)だといい、病名がわからなくてもわかった顔をして薬を飲ませ、病状が悪いと見れば患者を他の医者に任せて責任を逃れる。裏長屋や借家に住む貧しい病人のところへはあまり出かけず、お金がたくさん入る患者の家には毎日往診する・・」と書かれています。全てのお医者さんがこうではなかったでしょうが、現代医療の抱える問題に通じるこんな皮肉が庶民の間に残っているのです。
 そのような中で青洲は、紀伊藩主から藩の医者になる事を要請されますが、社会的な地位が上がるより目の前の医療現場に身を置いて、実際に患者を診ることの方を選びます。これは以前にお伝えしました、世界的エコロジストの南方熊楠にも当てはまります。二人とも名誉や地位のある要請にも関わらず、紀州・熊野の地に終生深く根ざし、在地実証主義の精神で研究を進める事の方が意味があったのです。
●足元を見つめて努力すれば至誠は天に通じる・・!
 私達も、青洲や熊楠の生き方のように、自らの足元をしっかり見つめた意識や強い信念をもって、周囲の意見や価値観にフラフラと振り回されず、世の中に役立つ地に足のついた誠の人生を歩みたいものですね。
NPO法人 熊野生流倶楽部 代表 満仲雄二
その拾         その拾弐→