【熊野通信】その拾
 熊野古道が世界文化遺産に登録され、アッと言う間に早や一年が経っていますが、今回は熊野街道ゆかりの場所で、大阪・谷町の高津の宮(高津神社)や堺の仁徳陵(大仙古墳)に因み人々からは「仁徳さん」と広く親しまれている「仁徳天皇」のお話を伝えたいと思います。
●民の竈(かまど)は賑わいにけり・・・!
 第16代仁徳天皇 (にんとくてんのう)は、中国の史書「宋書」の倭の五王のひとりと言われ、その御名にも表われているように「仁」と「徳」の聖王として描かれ、穏やかな善政〔推定在位383-399年〕を行ったと記されています。そのエピソードに「ある日、仁徳さんが高殿から四方を見回したところ、どこの人家からも竈の煙が立つのが見えず、きっとこれは民が貧しいせいだから活気がないんだと、今後3年間は租税を免除するとおおせられたそうです。また、ご自分の住まわれる宮殿が雨漏りしても修繕されず、衣食についても厳しくご倹約をなさったといいます。こうした仁政が功を奏し、民の家々からは再び炊煙が立ち昇るようになったのを見届けて、仁徳さんは「人民富めり」とおおせられ、課税を再開された」という記録が残されています。
●こころの清さを保った「仁のこころ」の大王・・!
 仁徳さんは、別名を大雀命(おおさざきのみこと)と呼ばれていました。大雀とは「彼は、清さに尽きた」という意味で「心の清さ」をずっと保っていた大王であったことを、命名として残したものだと考えられます。また仁徳の「仁」と言う字は、人偏にイコール(=)と書き、人は平等で相手も自分も差別すること無く、人の痛みは我が痛みであると言う思いやりのこころ・・・まさに古くから「医は仁術」であると言われるゆえんなのです。高津の宮の鳥居をくぐり表参道を少し入ったところに石碑が両側に建っています。そこには、漢文で「仁風敷宇宙 徳化洽乾坤」と書かれています。その意味は「思いやりのある優しいこころが宇宙に満ち溢れたとき、人を想う慈しみの行動となって天と地に広くゆきわたる」と言うことなのです。
 この「徳」のある方にちなんで現在の皇太子様がご誕生された折り、仁徳天皇の御事跡が朗唱され、その御名を『浩宮徳仁(なるひと)親王』 と御命名されたそうです。20世紀の間、争いが絶えないこの世界をこれから「仁のこころ」で包んでいかれるのだと感じます。
●隣り合って並ぶ出逢いと縁切りの坂!
 仁徳さんが住まいされた高津の宮(大阪市)には二つの坂があり、その一つは相合坂(縁結びの坂)と言って、二等辺三角形の坂の両側からそれぞれ男女が登り、頂上で同時にピッタリと出逢うと二人の相性が良いとされています。また一方、南の芸妓さんが嫌いな旦那さんとの縁を断つために、幾度となく通ったという話が伝わる「悪縁を絶つ坂」として密かに知られる縁切坂(西坂)が横にあり、明治初期まで形状が三下り半になっていたそうです。隣り合っていますのでくれぐれも、坂をお間違えのないように気を付けてくださいね。悪縁を切って良縁を結ぶのもいいですが、仁徳さんにあやかって「仁のこころ」でいい人との出逢いを大切にし、末永く良い関係で縁が続くようにしたいものですね。
NPO法人 熊野生流倶楽部 代表 満仲雄二
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