【熊野通信】その九
 太陽が最も高く日射しが長い夏至を迎え、黒潮に囲まれた紀伊半島は「夏」真っ盛りで、海に山にと訪れる楽しみに溢れています。この紀伊半島は日本で一番大きな半島ですが、昨年夏に世界文化遺産に登録された「高野・吉野・熊野」と言う三つの地域を含み、日本人にとっての精神性に深くかかわる「祈りの半島」であったとも言えます。今回は、この紀伊半島や四国を軸に縦横無尽に活躍した「空海」のお話しを伝えたいと思います。
●一気にジャンプ・・・不可思議な出会いの妙!
 空海は別名「弘法大師」といい、日本の真言密教(高野山)の開祖で「お大師さま」と呼ばれて広く民衆に親しまれています。生まれは讃岐国(香川県善通寺市)で幼名は「真魚(まお)」。15才で都に来て儒教を学んでいた空海は、ある日一人の僧侶と出会い、仏教の深遠な世界に魅せられ一転して山林修行の道へと生き方を変えました。四国山地を中心とした険しい山岳で修行することにより、自由に呪力を自らが高め自らが悟りの境地を追求する・・修験道の系譜を引くような修行なのでした。その中でさらに、大和久米寺で大日教と言う密教に出会い、今から1,200年程前(804年:空海31才)に、遣唐使の留学生となって最澄等と共に大陸へ渡り、長安・青竜寺の恵果和尚に運命の出会いをして師事したのです。
●わずか2年で帰国・・・時空を超える不思議!
 長い間密教の全てを伝授する者を待ちわびていた恵果和尚は、千人にも及ぶ彼の弟子達ではなく、異国からいきなりやって来た空海に「お前の来るのを待っていた・・すぐに密教の奥義を伝えよう!」と、わずか1年のうちに胎蔵界曼陀羅・金剛界曼陀羅の両界密教の秘法を授けて、遍照金剛の密号を与えました。そして務めを果たしきった恵果和尚はその年のうちに没し、空海は20年の期間を2年に短縮して、恵果和尚の言を守って、密教を日本に広め定着しようと帰国を決意しました。その時、先んじて帰国し天台宗を開いていた最澄は、自らの密教の不備を知り一年遅れで帰国した空海に密教の教えを乞うが、密教への認識の違いから数年間後に、二人は袂(たもと)を分かってしまうのです。このあたりからもっぱら密教は空海がリードし、独自の真言密教の体系を完成し、高野山を開いたのでした。また文筆や書をはじめ、身分を問わない教育機関の綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)の創設や、土木建築などの社会事業など「万能の天才」と呼ばれるほど、超人的で驚異的な事績を後世に残しています。また、水や農作物や病気平癒にまつわる伝説など、全国各地にその偉業が残されていますが、熊野にも空海の神秘的な伝説が多くあります。
●仏法遙かに非ず、心中すなわちこれ近し・・・!
 空海の遍照金剛とは「あまねく光が照らし、その本体は不滅である」と言うような意味で、大日如来を現した言葉なのです。人間はもともと宇宙の真理をとらえる目を秘めていると空海は教えます。私たちは、日常的に持っている習慣や既成概念に深く影響されており、知らず知らずのうちにそれらの感覚を閉ざしていると思われます。空海の密教は、その真実を感じるための能力を取り戻す為のモノで、頭であれやこれやと悩むのではなく、日々の実践が大事だとダイナミックにメッセージしているのです。「飛べば見える・・・!」と。
NPO 熊野生流倶楽部 代表 満仲雄二
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