【熊野通信】その八
 前回は、中国の秦の始皇帝の側近である「徐福(じょふく)さん」が、弥生時代に熊野へやって来たと言うお話をしましたが、今回は逆に熊野から、黒潮海流にのって大海原を渡っていった「補陀落渡海(ふだらくとかい)」のお話しを伝えたいと思います。
●救いとしての死と再生・・・補陀落渡海(ふだらくとかい)
 補陀落渡海は、古代から中世にかけて、関東の那珂湊や四国の室戸岬・足摺岬、また九州などにも見られますが、紀伊の国・熊野がその半数以上を占めています。日本全国の渡海行者たちは、南海のはるか彼方にあると言う、観音菩薩の浄土である補陀落へ行って往生し永遠に生きたいと願い、華厳経の補陀落の地形に似ている補陀落渡海のメッカ(熊野那智・補陀落山寺)へと集まったようです。現身のまま浄土をめざして、あえて死の旅路に出航していく補陀落渡海の背景には、古来より死と再生の信仰をもつ熊野の長い歴史が感じられます。
●補陀落浄土(ふだらくじょうど)への船出
 この補陀落渡海の多くは、熊野那智に北風が吹く冬の日の夕刻を選んで行われました。いよいよ補陀落渡海が行われる日、船に乗る渡海上人は、補陀落山寺で秘密の修法をした後、すぐ近くの浜の宮王子を参拝し、一の鳥居をくぐって浜辺に出ます。見送りの滝衆と呼ばれる修行僧たちが見守る中、上人が渡海船に乗り込むと、外からしっかりと釘が打ち付けられ出発が告げられます。船は全長約5m程で、中央に渡海上人が入る狭い居室、その周りには49本の塔婆と四方には赤い鳥居が立っているのです。これは船であると同時に、形の変わった棺桶でもあり、ちょっとその内容を想像すると、不気味なものがありますが、棺船または骨船とも呼ばれていました。やがて曳き船(ひきぶね)に引かれて少し沖合へ出た船は、帆立島で帆を立てて次ぎに綱切り島で曳き船の最期の綱を一気に切るのです。そして渡海船は大海原に向かって、死と再生の旅路へと漂流し、渡海上人は入水(じゅすい)往生を遂げたとされています。「熊野年代記」によれば、平安期(868年)を初めに1722年まで、854年間で、実に20人の補陀落渡海の僧たちが出航したようです。渡海人の年齢はさまざまでしたが、中には18歳の若い僧もいたそうです。しかし禁令後江戸時代には生きたまま渡海することは少なくなり、その後死者を送る水葬の儀式として継続されていきました。
●一体何のために・・・
 手足を伸ばすことも寝そべることもできない、かと言って座るには狭く天井が低い空間に入って、真っ暗闇の中念仏を唱えながら黒潮の荒波にもまれた渡海上人たちは、補陀落渡海への道のりに一体何を考え何を感じたのでしょうか?「やめておけば良かった?」「こんなはずじゃなかった?」・・・修行の経った上人たちは、まさかそんなこと!を思わなかったのかも知れませんが・・・これは本当に大変な事です。現代社会では「渡海」ならぬ「都会」の荒海の中で私たちはもまれ、人々や情報の波にのまれて、自分の本来の姿を見失ってしまっているのではないでしょうか?熊野の渡海上人に想いをはせながら、今一度自らの魂の声に耳を澄ましたいものです。
NPO 熊野生流倶楽部 代表 満仲雄二
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