【熊野通信】その七
 いよいよ新緑の季節となり、紀伊半島は黒潮の海の季節に向かってまっしぐらに変わっていきます。まわりを海に囲まれた長い海岸線を持つ熊野は、昔から海とのゆかりが深いところでした。太地の捕鯨や紀伊国屋文左衛門と蜜柑船はじめ、交通の面でも生業の面でも様々に活躍した人々がいました。今回はその中でも、歴史の謎とロマンに彩られる、熊野ゆかりの徐福渡来伝説をご紹介します。
●遙かなる夢を求めて熊野へやって来た徐福さん!
 徐福(じょふく)は新宮では「徐福さん」と親しみを込めて呼ばれていますが、実は2,200年前(弥生時代)と言う気の遠くなるような遙か昔、黒潮の流れに乗って熊野へやって来たのです。彼は当時の中国を統一した秦の始皇帝の300人ほどいたブレーンの一人で、不老長寿術や占術、呪術や薬学・天文学などを極めた知恵者のような身分にいたのです。中国の歴史書(史記:司馬遷著)では、紀元前219年にその始皇帝が斉の国を訪れた時、徐福と運命の出会いがあったと伝えています。「海の向こうに蓬莱、方丈などの神山があり、そこへ行けば不老不死の仙薬が手に入ります。それを献上するために、私が探しに参りましょう!」と徐福が進言したのです。ちょうど戦国時代を経て国家を統一した始皇帝は、不老不死の身となってこれからも永遠に権力を手にしたいと夢を描いていたところで、徐福のその言葉に大いに喜び、徐福を蓬莱の国へ送り出したのです。
●天台烏薬(てんだいうやく)を求めた三千人の大ロマン!
 こうして徐福は中国から9年もの歳月をかけて、製鉄や造船・建築や捕鯨・織物や紙漉など様々な知恵や技術を身につけた3,000人余りの人々を引き連れて、東方海上の神山にあるという熊野の地に上陸しました。そして、不老不死の霊薬「天台烏薬」を見つけた徐福たちは、その後温暖な自然環境や熊野の人々の温かいこころに包まれた熊野を永住の地と定め、二度と始皇帝のいる秦の国へ戻らなかったのでした。一説には、暴君始皇帝の圧政から逃れて、遙かな異国で平安に暮らすためにこの夢物語で始皇帝を欺いたとも言われています。また、そのキーワードとなった「天台烏薬」は、くすのき科の背の低い常緑樹で、春になると小さな淡黄色の花をつけ、現在でも新宮市内で大事に栽培されています。
●日本全国各地に伝説を残す謎の徐福!
 その足跡は熊野以外でも青森や富士山・名古屋の熱田などで、地域伝承が生まれ日本各地でも語り継がれています。しかし徐福の墓が残されているのは和歌山県の新宮市のみなのです。徐福の墓の隣にある徐福顕彰碑には、次のように記されているのです。「後の世の人が昔のことを思い見るのは、ちょうど、月夜の晩に遙か遠方を眺めるようなものである。そこには何かあることはわかっているが、その形をハッキリ知ることはできない・・つまり徐福が熊野に来たことも同じで、現在では詳しいことはわからないが、紀元前に徐福が来たことは事実である」と言う意味なのです。
 2,200年もの時空を超え、今も熊野の人々の心の中に永遠に生き続ける男、徐福。たとえこの世の身体は滅びようとも、未来永劫にその魂が生き続ける・・・まさに魂の不老不死の桃源郷が熊野なのです。
NPO 熊野生流倶楽部 代表 満仲雄二
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