【熊野通信】その四
 縄文からの魂を受け継ぐ熊野・新宮の火祭り「お燈祭り」を新年号でお伝えしましたが、それは取りも直さず悠久の時を超えて連綿と、私たち一人ひとりにつながる「生命の流れ」でもあるのです。今回は、その母なる熊野の大自然の深い森に入って、切れ目なくひとつながりに織りなされた、生命の神秘に目を凝らせた紀州の「知の巨人」南方熊楠(1867-1941年)に学びたいと思います。 
 最近、世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」は、聞いたことがあるけれど、あらためて「熊野ってどこ?」とよく聞かれます。日本最大の半島である紀伊半島の、西は田辺市から東は尾鷲市辺りを横に結んだ、南側つまり太平洋に面した地域が熊野圏なのです。廃藩置県で熊野は和歌山県・奈良県・三重県に行政が分化されましたが、自然の生態系や人々の生活・文化は、ひとつらなりの熊野圏に変わりありません。その中でも南方熊楠が活躍した田辺は、深い熊野圏への入り口であり、熊野古道中辺路と大辺路の分岐点でもあります。
●生命のエコロジスト・・・南方熊楠
 「雨にけふる神島を見て、紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」という、昭和天皇御製の歌にも詠まれたエコロジスト南方熊楠は、この田辺に居を構え自然の生命現象を観察した人です。当時20世紀初頭は、日本に「自然保護」と言う言葉も無く、まして、環境保全と言う認識もありませんでした。1906年に神社の森を伐採し農地化する目的で、神社合祀令が起こった時、熊楠はその自然破壊に対して敢然と抗議し、反対運動を行っていました。それは、刻一刻と自然環境の変化によって、進化変容し環境に順応してつづけてきた、生命史・自然史の生きた証拠である、粘菌を研究していたことと、熊楠が若き頃学問をするために行ったイギリスが自然保護運動、ナショナル・トラストの先進国であったことに伺えます。
 熊楠は、グローバルに18ヶ国語を理解し世界から学びそして世界へ情報発信しました。しかし、その根っこはあくまでも紀州・田辺に深く根ざし熊野を離れなかった、民俗学・博物学・生物学など、さまざまな学問に通じた異色の人なのでした。
●森羅万象に学ぶ・・・自らの生き方
 深い森の中へ入っていって熊楠は、粘菌を通して生命の持つ多様性や、生命の形の不思議、また生命の働きの中にある霊的なものの力や、目には見えない生命の悠久の時の流れを見つめていました。その粘菌の中でも変形菌と呼ばれるものは、アメーバーのように動き回る原生動物に属したり、また無数のキノコ状に変化し胞子を作って風に乗って飛散したりする「植物なのか?動物なのか?」その所属が不確定な不思議な生き物なのです。さらに熊楠の植物研究はシダ、コケ、藻、キノコ、カビ、バクテリアなど、隠花植物(花を咲かせない植物)全般に及んでいました。
 熊楠が熊野の母なる森や大自然から学んだ大いなる智恵は、身体感覚と知性そして実践というものが三位一体で結びついて、全体が統合されています。私たちも学校で勉強して身につけた学問だけではなく、実際に森や山や海の中に入って森羅万象に学び、生命全体の中で私たち人間の存在が、何と小さな存在かということを実感する必要があります。そうすることによって、世間の常識や現代社会の価値観、宗教や所属団体の教義だけにとらわれがちな人間の在り方に反省を迫られ、自らが愚を含む愚かな存在だと知らされます。今、花を求めた現代社会はいろんなものが閉塞状態に陥っています。熊楠の教えに学びながら、花を求めて歩くことより、自らが花を咲かせていく積極的で創造的な生き方をし、自分が歩いたあとに「一輪の花」を咲かせていきましょう。
NPO 熊野生流倶楽部 代表 満仲雄二
その参         その五→