その七拾壱 時空を超える旅
【時空を超える旅】
 前回は、思い通りにならない自分の内側を知るために、心の大紀行へ出かけましょう!と言うお話をしました。最近は、さまざまな情報が溢れかえり、知ることはできても、かえって情報に振り回され迷路に入ってしまうことが多いのではないでしょうか?今回は、感じることの大切さ「ありのまま」を古来からの旅に求めてみます。

生々流転
生々流転
●旅行と旅の違い・・・!
 千年前に人々が、我も!我も!と求めて行った「熊野詣で」・・・当時の生活状態や交通手段から考えても、容易なことでは無かったと思います。余程の覚悟と決死の想いで、往復一ヶ月の旅に出て歩きながら救いを求め、体験と自問自答を通して「生きる道」を発見したのです。決して今のように、美味しいモノを食べ名所を見る観光旅行ではないのです。
 もともと熊野の大峰山には、古来から修験道と言う修行がありますが、大自然の中に身を置いて、その中から生き方を感じ学ぶ、「経験・体験の皮膚感覚」を基本としたものでした。安全な旅行と違い、当然危険も伴う旅であり、それ故に出会う一つ一つの風景や巨石・巨木など大自然の造作に深い生命観を感じ、自らの再生のヒントにしたのだと思います。
 昨今の観光地巡りの物見遊山の旅行は、精神や心のリセットには、ほど遠いのです。
●めくるめく人生の旅・・・巡礼。
 私たちの命は、遺伝子によって次の世代へと引き継がれています。必ず生みの父母がいて、そのまた祖父祖母がいて・・・と、延々と命はつながり、20代(約600年)も遡れば、その先祖の数は100万人、30代(約900年)も遡れば、何とあなたがこの世に生まれるために、1億3000万人の日本の人口に匹敵する先祖が生命潮流として背景に存在するのです。ちなみに、古墳時代の日本の人口は540万人と言われています。
 そうして考えてみれば、一人ひとりは、大いなる生命からの隣人として、確かにつながっていると思って良いのではないでしょうか。しかし私たちが認識している生命の潮流は、大半がせいぜい祖父母の顔ぐらいまでしか実感していないのです。
●とらわれの心を捨てる・・!
 自分でありながら特に自らのこころと言うのは、誰しも大変捉えにくいもので、「こころより こころをえんと こころえて こころにまよふ こころなりけり」と、一遍上人も迷い苦しみ、七転八倒の挙げ句の果てに熊野を訪ね、そこで夢に現れた熊野権現から、「信不信を問わず、浄不浄を嫌わず、、」と広大慈悲の道を教えられ、自らのこだわりも捨て去ったと言われています。つまり、名誉や財産へのこだわりやエゴのとらわれを捨て・・・さらに捨てることも捨ててしまい、ただ「ありのままの自然流」で良いのだ、と言うことなのです。
●新しい巡礼「千が峰トライアングル」
 自分流と言ってもエゴによるわがまま気ままでは、世の中誰も相手にしてくれません。また、自分の利益ばかり求めていては、付き合う人は損をするばかりで、誰も付いて来ません。自分から離れて自分を見つめ直す・・・そんな「精神の自由と人生の創造性」を求める旅が、今、国生みの淡路島を中心とした、東経135°線上に千が峰トライアングルの正三角形の霊峰巡礼として浮かび上がっています。いつまでも自分のエゴを離れられず、人生の堂々巡りをすることだけは、そろそろ避けたいものです。

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