その伍拾七 均衡・・真澄の鏡
【均衡・・真澄の鏡】
 前回は、川の水面はその街に住む人々のこころの在り様や美しさを映し出す鏡であると言う「水からの学び」をお伝えしましたが、今回は自分のすべてを映し出す「真澄の鏡」のお話しをしたいと思います。 

真澄の鏡
真澄の鏡
●自分という虚像・・!
 私達がふだん何気なく鏡を見ていて、自分だと思い込んでいるその鏡の顔は、左右が逆転しているので、この世には存在しない顔・・・つまり「虚像」なのです。!鏡に向かって左目をウインクすると、映っているその顔は、右目をウインクしているからです。
しかし違和感が無いのは、顔の作りがほぼ左右対象なので、錯覚して自分だと思い違いしているだけなのです(・・では上下はなぜ逆転しないのでしょうか?説明は省きますが)
  一方、相手の人が見ている自分の顔は、写真やビデオに映る顔と同じですが、絶対に自分は肉眼で直接見ることはできません。つまりこの広い宇宙や世界の中で、皮肉なことに唯一「自分の顔」だけが、誰もがまともに見えないのです。
●感性を磨く・・真澄の鏡
 鏡(mirror)は、奇跡や不思議(miracle)という意味のラテン語に関係があります。古くから鏡は、光りを映し出す神聖なモノとして、剣や玉と共に大切にされ、古代日本人の感性は、自然物のみならず文明の利器に対しても、神霊そのものの象徴として神秘的な霊的存在を感じ取っていたのです。鏡のその澄みきった様子を称える言葉に「真澄の鏡」(ますみのかがみ)と言う言い方があります。鏡は「太陽」の如くに光輝く存在と感じとられ、その光を受けて輝く磨き込まれた、一点の曇りも無い「満月」という鏡のその有様に、和歌や俳句などを詠んで、日々の心を映していたのだと思います。
●照らし返しの感受性
 しかしながら現代社会は、鏡に映る虚像の如く自己中心的になっていないでしょうか?経験や体験を抜きにした虚の知識や実績で、人やモノを捉えたり判断していないでしょうか?心を映すと言うその感受性も、磨いて行かなければたちまち曇ってしまいます。
 すべて身のまわりに起こることは、良きも悪しきも、幸も不幸も、環(たまき)となって現れ自分に教えてくれるもので、照らし返しの中に如何に学ぶか?が重要です。
 「鏡」とは、真実と言う実像を、心に映せば、輝く身(かがやくみ)となっていくのだと感じます。無理をせずに一歩一歩が大切・・・不思議はそこに起こります!
 

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